国家権力が市民組織を抑えるためにどのような法が形成されてきたのかを概括的に著された書であり、教科書的に読める。専門性は極力取り除かれているものの、要諦はきちんと抑えているので啓蒙書としての新書の役割を十二分に果たしている。
ただ事実を教科書的に淡々と記述するスタイルをとられているので一息つきにくく、集中力が少しでも削がれている状況で読めば、前後関係が捉えられなくなることもあった。ただこれは読者である私の責任である。
現在の日本の経済体系や法体系の骨格は案外、戦時体制中に生まれたものが多いのだが、つい最近成立した共謀罪においても、戦前に生まれた治安維持法から法の思想面では連綿と受け継がれていることがわかった。
これは戦時体制で拡大した国家権力を戦後、GHQとの交渉において官僚的レトリックを駆使し保持できたことが大きいだろう。明治維新においても幕府側の官僚?が重用されたように新政府の統治の際において、既存の行政官を上手く相互に利用しあうことは必然なのだろうか。
そこには国民の意思が反映されず勢力維持を目論む官僚たちの思惑がある。国民のための国家が国家のための国民に転回し、国家のために奉仕を求めた過去が日本にはある。我々には、国家体制の維持のために国民の意思表示を規制、弾圧してきた歴史があった。それから時代を経た現在、再びあらゆる空間に国家権力の影が忍び寄っている。
本書では共謀罪があらゆる活動に適用される可能性を指摘している。身近な所で言うと企業税務に置いて脱税を指摘された組織が、再び節税の意図を持って税務計算を計ろうとすると共謀罪に該当する可能性があり企業活動を削ぐ恐れがあるという。
共謀罪において特に我々が不安を感じるのは、国家による通信の傍受を許可する対象が多数あることでは無いだろうか。我々が何気なく使っているスマートフォンにおいても警察内のさじ加減1つで個人情報が筒抜けになる可能性もある。
これ以外にも様々な不安点を指摘しているが、本書で著している論点はあくまで共謀罪の法律としての非正当性や不備であって、そこには一応立法府による承認?があった。国民の投票行動によってその法の改正も可能だ。私が思うに今日もっとも私たちの市民生活に帯び寄せている危機は、国家や様々な既存権力が超法規的な力を使って民衆を煽り、自分たちの意図する結果を生み出すことができることでは無いだろうか。超法規的な力とは例えば通信機器内の情報を政府の子飼いを使って公開させたり政府の非公式的な指示による組織的な嫌がらせが想定される。
スマートフォンの普及は情報伝達を飛躍的に進歩させ、あらゆる用途に利用されているが、それは諸刃の剣であり、そこには極めて個人的な情報が含まれるようになった。その個人情報を不特定多数に公開されることは、個人の尊厳にも関わることに繋がるが、卓越したハッカーや国家権力は極めて容易にその情報にアクセスできる。一見豊かになった社会は、それと同時に大きな脆弱性を持ち合わせることになったのだ。
その情報で国民を操れることは容易に想像出来る。
例えば、1つのケースを想定してみる。現在の政府の方針に徹底的に批判的な政治指導者がいて、それがカリスマ的な人気を持っているとしよう。ある日、大規模なハッキングが行われ多くの情報が漏洩し、そこにはそのカリスマ的指導者の指導力を失墜させるスキャンダルや国家反復を意図するやり取りが含まれていた。
しかし、実はそのハッキングは政府の指揮下で行われ、さらにその情報は昨今の技術の進歩により自由に捏造されたものであったのだ。通信会社やマスコミにも手を回し、それらの情報を事実であるかのような裏付けの偽装すら行われていた。
常日頃批判的であった側の市民はそれが事実かどうかは重要ではなく、感情的な批判をSNSに覆い尽くして多くの市民を扇動させた。結果その指導者の政治生命は失われることになった。
こんな手の混んだ話は荒唐無稽かと思われるだろう。しかし、国家間の緊張が高まった時など、国民の意思を統一したい思惑がある時は、手段を選ばない扇動を行う危険性はある。
以上は公人である政治指導者の例であるが一般の市民にも政府の手が及ぶ可能性はある。私が浮かんだのは、徴兵の迅速な実行のために個人情報を利用し拒否者を間接的に脅迫することだ。もう長くなったので私の想像は割愛するが、様々な通信手段と情報メディアが生まれたことで、従来よりさらに高度な扇動手法が生み出され、政府が超法規的な手法を駆使する誘惑がこれまで以上に高まっているのだ。
超法規的手段は法治国家としてのプロセスを省略し、民主主義のコストを最低限に抑えた方法で実行可能となる。そのため強権的政府はその調査、研究に躊躇しないだろう。そこには国民の切迫した意思はもはや不在だ。