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太田光 著『芸人人語』を読んで

太田光の主張は一貫しているのでフォロワーだったら目新しい箇所はさほどない。だがそれは欠点にならず、むしろ通底に存在する一貫性が彼を信用させる一助となる。


様々なものに影響され、それによって培われた持論を守る故に視点が限定されがちで、長年追っていた者からすると既知なものになりがちだ。しかし彼は思想を発表する場に恵まれているので、それ以上を求めるのは贅沢であるし、彼の貫き通すコアな部分は侵される可能性はないだろうということに安心を得られる。


以下メモ


芸能人として太田光は無責任男を標榜するトリックスターとしての一面と、鋭い視点で積極的に社会問題を切り込むオピニオンリーダーとしての一面があるのではないかと思う。(異論はあるだろうが)


統一教会を擁護する彼の存在を見て私を含む世間一般の人達は無責任な発言と太田を糾弾し溜飲を下げようとするだろう。ただ普段はくだらないことをいう芸人に過ぎない彼の一面から公人としての責任は微妙に回避することができる

 

一方、世間から白い目で見られている信者達にとっては彼をオピニオンリーダーとしての側面から彼の発言によって自身の存在を擁護することが出来る。彼がつくりあげたブランドの賜物だろう。太田の発言に救われ悲惨な道へ進まなかった信者も多いだろうと思う(既に悲惨だと言われれば首肯するしかないが)。


要するに無責任であることが彼の生命を守り、ブランドでもあることが信者の尊厳を守るのである。この微妙なバランス関係が崩れると、太田や信者にとって不幸な結果をもたらしたのではないだろうか。


太田が意図的にやっている訳では無いだろう。しかし植木等を尊敬する彼が目指す無責任男としての一面と、自身の経験による自省から少数派への徹底的な擁護を行う一面によって、彼の存在は世間から攻撃を受けるあらゆる人にとって、自然とその世間との緩衝地帯になる可能性を持つことになるのである。恒等関係になっていると言えばいいのか。(気取って意味をよくわかっていない用語を使ってみました)


反社会的組織の存在を許さないという私たちの意識は、規範的な社会の実現のためには不可欠である。私も統一教会の存在は許し難いと思っている。しかし社会が掬いきれない影の部分を包摂する団体や個人が反社会的であるのは往々にある。

その存在が奪われた時、虐げられた人達は何をよすがにすればいいのであろうか。


太田光の存在は拠り所のない現代の多くの人にとって必要不可欠なものとなりつつあるのかもしれない。(大袈裟)


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