読んだばかりで全然読みは浅いので間違いだらけだと思う。第二章の悪所という観念が面白かった。
元禄の頃、遊里(色街)は悪所と言われていた。遊里は実世界とは隔離されていて(実の世界とは隣り合わせでもあったが)そのような世界で繰り広げられているやり取りが、実世界の恋愛を成就するのは難しい?江戸時代では町民にとってなくてはならないものであったという。
「地女の恋路はうすく、色里の恋路は深くといふ事」
この格言は昨今の芸能界で多発する不倫報道でもわかるように現代でも応用できるだろう。
細雪の作品回顧で谷崎は意図的に不倫や不道徳といった類を省いたと述べている。
この不完全性は作品の評価にどのような影響を及ぼしたのだろうか。
細雪は当時の阪神間の風土をもとに谷崎一流のストーリーテリングと文章の構成力で綴られた谷崎潤一郎の代表作である(ちなみに私は、谷崎の文書を過大に評価できない。なぜなら現代のシンプルな表現を好む教育を受けてそのような現代の文章構成を確立させた夏目漱石の文章を絶対的に支持するからである)。当時の阪神間モダニズムの風俗を描いた傑作であるが、上述のように当時の時勢のため不倫のような不道徳性を排除している。
もちろん谷崎は卍で不道徳性を全面性にだした文学を残している。この作品も代表作の一つにあげられているのでやろうと思えばできたのである。私はこの作品のほうがエンタメ性では勝っているとすら思っている。
では細雪に卍のように不道徳性を挿入するべきだったのだろうか。「元禄文化」を読み細雪が頭によぎった瞬間は、この不完全性が作品の欠点だと頭によぎった。なぜなら上方文化の色濃い阪神地域においてこのような色恋沙汰を表現することによって作品の真実性が増すからである。
しかし浅学ながら思考した結果、必ずしもそうならないのではと思ったのである。
それは細雪で行われた阪神間モダニズムの一種の理想化が上方地方にあるといわれるコテコテ感を排除することに成功したと思うからである。
卍では東京出身ながら谷崎は彼の天才性によって上方のコテコテ感を表現することに成功している(と私は思う)。
細雪にも不倫の描写を入れようとすると、会話の間の土着性、濃密さからこのようなコテコテ感が強く出てしまうのではないかと私は思うのである。
細雪は何度も舞台化や映像化されてきた。中には舞台を東京に移した作品もある。このように作品が後年になっても取り上げられてきたのは当時のモダニズムの理想化に成功したからではないのか。そこに色恋という虚でありながら普遍的である世界観を挿入すると、資料としての質は上がるが、作品から生まれてくる優美さは失われていたかも知れない。
歴史は往々にして理想化されがちである。
これは私達が欲する情報を欲し、不適だと思う情報は捨ててしまうからであろう。
細雪は傑作であるのは疑いようないだろう。しかし「元禄文化」を読み、細雪が捨象した、上方地方が熟成してきた色恋の文化について詳しく知ることができたのを嬉しく思う。