今朝、思ったことを忘れないうちにメモしたいと思います。まだ自分の考えがまとまっていないので破綻していると思いますが。
私の尊敬する人は多くいるのですが、その中に夏目漱石、太田光、ドストエフスキーがいます。この三者の共通点は、彼ら全員が深刻な孤独の経験を味わい、それを見事に表現者として作品等に反映することに成功したことです。
夏目漱石はロンドンに留学中に、貧困や英国人との差異にコンプレックスを深め、神経衰弱を患い、自身が作家として活動するようになってからも、例えば「吾輩は猫である」においては、自身の統合失調症を疑うような描写がされています。太田光は高校時代、友人を作らず読書に没頭していたと盛んに表明しており、また、漫才師として活動するようになってからは所属している大手芸能事務所に足を向ける行動をしたため、数年間、芸能活動と縁のない生活を送ったと言います。ドストエフスキーは反体制派の活動に参加したため投獄され、銃殺寸前に恩赦がされたという逸話があったことを記憶しています。そして、獄中での思索は「地下室の手記」などの作品に反映されているかもしれません。
彼らの孤独は彼ら自身のその後の人生に、徹底的な影響を与えたと言っても過言ではないでしょう。夏目漱石は厭世的な諦観を確固としていたかもしれませんが、それが多くの作品に全体的に内在している寂しさを表現することに成功しています。太田光は、他人に対する共感力を全面的に押し出し、世間から糾弾されている対象に常に同情的な態度を表明しています。また人間に対する全面的な肯定も彼の孤独から導かれた思索の結果からではないでしょうか。ドストエフスキーはキリスト教に対する信仰を深め、キリスト教の信仰による救いを前面に出した作品も存在します。私が彼の作品で読了できたのは、恥ずかしながらカラマーゾフの兄弟、一作品のみですが、私はこの作品は信仰による救いが重要なテーマの一つになっていると思います。
私も孤独を経験しており、それに向き合うことの辛さを認識しているつもりです。あくまで私の経験ですが、孤独は自身のすべての行動に自責的になります。自分のしたあの軽はずみな行動が今の現状を導いているのではないかとか、あの時のあの発言がその対象をひどく傷つけたかもしれないと、そのあらゆる行動の責任が現在、自分に向けられているのだと帰結してしまいます。その深い悔恨はある意味、衝動的に自殺することよりもきついことかもしれません。なぜならその人達は、それに向き合うことを拒否したのですから。詳しく覚えていませんが、ドストエフスキーは、作品において肉体的な苦しみより自責的な精神的な苦しみの方がより大きいといったことを記していたと記憶しています。
一般的な人生を送る人にとって、その人生を一休みすることはあまり普通ではありません。小学生から社会人として定年を迎えるまでの内、その期間においてドロップアウトすることは人生の汚点になると、社会は見なすからです。そのため人は一所懸命に社会から見捨てられないよう走り続けます。当然社会で生きていこうとすると、逆説的ですが、反社会的なことに従ずることは往々にあります。我々はそれを仕方のないことだとか、皆がするから仕様がないことだと自らに言い聞かせます。確かにその時はそれで乗り切れます。しかし、社会との関係が切れ、孤独に陥り自分との対話に向けられた時、自分のしてきたことの罪に耐えられない人々も出てくるのです。
そのような場面に出くわしたとき、人々がとる行動は2パターンあると思います。一つは、この三者のように徹底的に自分と向き合い昇華させる。もう一つはそれから逃げ続け、決して程度が高いと思われない娯楽に興じてそれに向き合わないということです。
孤独の中での自省は時として命をもかけるとも言っても過言ではありません。これから逃げている人は、脳がそれはまずいというシグナルを出し、様々なものに逃避させているのかもしれず、むしろそれは種として優れているのかもしれません。この三者はしかし、それから逃げずに正面切って戦って、それを昇華した作品が世間から評価されるという形で、ある程度の勝利を果たしていると私は思います。だから私は彼らを尊敬するのです。
![吾輩は猫である改版 (新潮文庫) [ 夏目漱石 ] 吾輩は猫である改版 (新潮文庫) [ 夏目漱石 ]](http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/book/cabinet/0014/9784101010014.jpg?_ex=128x128)
- 価格: 693 円
- 楽天で詳細を見る