気分が乗らなくても記録しておくことはいいことだと信じて少しメモ。
私は安寧の生活を得たいと日々思っています。というのは、嘘っぽい話ですが私はある組織を敵に回し、その対応をとるために悪戦苦闘しているからです。その組織は私を社会から孤立させようとし、凡夫がどこまで非人間的になれるかという肝試し的な、アホらしい攻撃を重ねてきました。私は一時、社会から孤立しましたが、幸運にも助けてくれる方が周りにいたため、何とか社会とは蜘蛛の糸のような人間があてにするには弱々しいですが、すがることのできる縁とつながっています。
それはありがたいことですが、一時的に安寧を得るたびごとに思うことがあります。それは「社会とつながることにどれだけの価値があるのか」です。社会生活に属することは、基本的な人間らしい生活を送ろうとしたら必要条件なのかもしれません。ただ過去の記事において(リンク参照)、社会に属しようとすると逆説的に反社会的な行動に従じてしまうと述べました。また、おおよそこの人を一人前の理性を持った市民であるとみなせない人とも付き合っていかなければならないことについても述べました。
こういう傍若無人を振る舞うとブーメランが返ってくるのですが、それは甘受するとして、自分が反社会的な力に立ち向かい、いざ相手の執着から心理的に解放されると、今度はとんでもない虚しさが内面から襲ってくるのです。
それはもう一度、前述のような矛盾を含む社会に再参入する心理的恐怖からくるものかもしれませんし、脳内のホルモンバランスが乱れて精神的におかしくなった、もしくは無益な闘争だったなという深い悔恨からくるものからかもしれません。
いっそ自身のあらゆる執着から離れて、社会から孤立して生きていきたいと思うこともあります。要するに自分の中である程度、心のおさまりがよくなっても決して解放感等ポジティブな気持ちに満たされることがないのです。この漠然とした虚しさと向き合っていくのは少しキツイなと頻繁に思います。
ただ私が、社会と今後もつながっていかなければと思う理由が一つあるので、何とか今後もそれの実現を信じて、自分と戦っていければと思います。