多くの人が面白いと感じていても自分はそこまでだなぁと思うことはよくあるかと思います。でも何らかの組織に所属してその使命を全うするためにはその他大勢の感性に合わせるしかないことがしょっちゅうです。
私もその類の人間の方にどっちかというと分別されるかもしれません。更に言うとその傾向は通常の人より、より強い時があります。小学校低学年の時には一人でいることが多く、休み時間とか本とか読んでいました。それは寂しいということで自分から声かけて友達とか作っていったなという、何となくの記憶があるのですが他人との感性の一致って結構妥協することが多く、自分が主導して何かこれが面白いとか面白くないとかのような主張はあまりなかったかと思います。
私は大学に行くというのがそれ以前から恐れており、合コンとか飲み会とか奔放的な享楽に参加したいと微塵も思いませんでした。何かしら野性的なものに対する忌避感がありそういうのが楽しそうだと思う事はなかったのです。
ただ酒池肉林的なものを楽しむことのできる人が世の中においては大多数を占めて、気のあいそうな人でもそういうのに積極的な人が多いんだなと何となくわかっていく中で、ますます組織に対する忌避感というのが強くなっていった次第です。
前述の通り、そういったものに対して自分が適応していくために奮闘したことがありますが、結果的にキャラ外で自分の人生にとって大きな負債となっています。
もうちょっと自分を抑えてそのキャラ外を突きつめていくと自分の人生がもっと奔放的なものにして効用を得る事も可能だったかも知れません。でもそれは最終的に大きな悔恨と罪を重ねた人生になっていたと思います。人生の逆境に立った際の自身を思考実験の材料にしてみると悲劇的な結論に持っていかざるを得ません
中居氏の事案を見て、超消極的な人生を送ったことは内的に罪に苦しむことが普段の生活上にあっても、逆に積極さが故の社会的な加害者とはならずにすんだことは一種の利点ではあります。ただつまらない人生に違いありません。