大衆の耳目を集める刑事事件、スキャンダルにおいてマスコミやインフルエンサーはストーリー性を付けたがりますが、どうにも腑に落ちないことがあります。今日、Xを見ていて私が疑問をもったのが、クルド人ヘイトに関してです。そこでは大衆の憎悪を煽ってやろうという文言が大量に集まります。そこには巧妙に多くの人の正義心を煽る際のレトリックが用いられています。
次からの文章は多くの人を不愉快させるかもしれません。ただ結論まで一応納得できる論理の道筋はつけたいと思っています。
そのクルド人を糾弾しているポストの返信欄にある方が、クルド人の中には女性に性的暴行を行うものが存在し許せないといったものがありました。またさらに深堀していけば子供たちにとって危険で生活できないといった、ポストもあるのかもしれません。
スキャンダルというのは当然そこに至るまでのストーリーがあるのは当然ですが、その対象の事件の中ではだれが本当に弱者であるとか、尊厳を踏みにじられたのかというのは案外第三者はわかりにくくどうしてもマスコミの報道に依拠して判断せざるを得ない時があります。
マスコミが好んで(語弊があり批判を受ける覚悟はあります)報道したがる事件は未成年者、特に幼児が被害になる事件もしくは性犯罪だと思います。確かに事件の報道は深堀すればするほど凄惨だと感じることもあります。これが社会問題と化しているのは米軍基地問題や先に記した移民排斥運動であると思います。
私は確かにそれらの社会問題が悲惨性を認める一方で、扇動の格好の材料として政治団体等が利用しているのは何かしらずるいと思ってしまいます。
弱者であると社会的に見なされながらも実はその対象に被害を受ける人はたくさんいます。私が一番実感として思いつくのが学校の教師です。私が中学生の時分、それなりに荒れていて、辞職する教師もそれなりにいました。そういった前段階のストーリーがあっても、もし教師が手を出せば、教師が暴行してひどい奴だというストーリーにされ新聞の社会面に乗るのは明らかです。結局四方敵に囲まれ、職を辞していった悲哀を思い出すと未だにその教師の行く末はどうなっていったんだろうとふと思いに浸る時があります。
一人私が覚えているのが隣のクラスの担任だった男性教師です。彼は中年男性だったので、ある学問の観点から強者であり、社会的な弱者に対して抑圧的な対象であったかもしれません。しかし、その教師は強圧的だったという記憶もなく長年キャリアを着実に積み上げられた方であったと思います。そういった方に対する同情というのは悲しいほど少なくいわば負け犬であり社会学的な研究対象となっても傍流となってしまうのではないでしょうか。
私も恥ずかしながら社会的な弱者である女性に高校時代、不興を買いさんざん嫌がらせを受け、しばしば体調不良をもたらしたものです。当然、そのような負け犬は目もくれず、上野千鶴子氏みたいなフェミニストからしたら女性の勝利だと彼女たちを称賛する立場にあるのかもしれません。
長くなり脈絡もなくなってきましたが、以上のように社会的な強者、弱者の反転は実生活上で多数あり、ある学問からしたらアンチテーゼであり、対象者からすれば尊厳を相当、踏みにじられる不条理を甘受しなければならないのです。もっというと世間的弱者に対する世間的強者の敗北はある一部の大衆からすればより喜劇的であると言えるでしょう。
話は唐突に変わります。私は先日、近所の人と取っ組みあいになりました。幸い仲介者が現れ、事なきを得ました。彼の風貌は恰幅でマイルドヤンキー風でした。さらに妻帯者かつ子息を連れ、自信に満ちた振る舞いで街を歩いていました。いわば現代社会の勝者であると言えるでしょう。
結局、このような大手を振るって歩けるような人が妻帯かつ子孫を残せるのだなぁという意味においてフェミニズムの敗北を感じるのです。男性性を強く出し、根拠がなくても自信をもって世間を歩ける人が幸せをつかむことができるのです。逆に世間に消極的な人は収入も少なく未婚者も多く結局は少子化という、社会の維持の困難性という課題をフェミニズムは抱えるのではないでしょうか。